常識に従う人生が“歯車”を生む──なぜ思考停止は無責任なのか

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「多くの人は無責任な人間だ」

これは決して挑発でも差別でもない。紛れもない事実だと、俺は思っている。

世の中の多くの人が「努力せずに安心を得たい」という愚かなマインドで生きている。だから、盗難保険やがん保険に入って「これで安心だ」と言い聞かせながら、不摂生な生活を続ける。車が盗まれても保険があるからいい、ガンになっても治療費が出るからいい。そんな本末転倒な考えで「安心」した気になっている。

けれど、それは安心なんかじゃない。ただの責任放棄だ。


■ 「備える」と「逃げる」は違う

本当に盗まれたくないなら、まず盗まれないように備えるべきだ。本当に病気になりたくないなら、生活習慣を整えるべきだ。それをしないで「保険に入ってるから大丈夫」というのは、考えることをやめた証拠だ。

保険とは本来、“最悪の事態”を回避できなかった時の最後の手段であるべきなのに、多くの人はそれを最初の安心材料にしている。努力をすっ飛ばして、お金で「安心」を買った気になっている。


■ 支出が増える。だから働く時間が増える

そうやって「万が一に備えて」という名目で不要な支出がどんどん増えていく。毎月の保険料、保証料、サブスク、便利サービス…本来ならいらないものまで、安心のためにお金を払い続ける。

そしてその支出をまかなうために、自分の時間や労力を切り売りして働き続けなければならない。忙しくなる。立ち止まって考える暇もなくなる。だからますます思考停止に陥り、「みんなやってるから」という誤った常識に従ってしまう。

これが社会のカラクリだ。


■ 常識は、誰かが作った幻想だ

俺が言いたいのは、常識とは絶対的な真実ではないということだ。
「保険は入るのが当たり前」
「老後は年金で暮らすのが当たり前」
「新車はローンで買うのが当たり前」

その“当たり前”は、一体誰が決めた?
多くは、企業や業界が都合よく作り上げた“空気”でしかない。自分で考える力を持たない人間は、そういう空気に簡単に流されてしまう。


■ 自分の人生に責任を持て

安心を得たければ、まず努力することだ。
未来を守りたければ、今の行動を変えることだ。
そして何より、自分の人生は自分で考え、自分で責任を持つことだ。

人に流されているうちは、決して自由になれない。
“自分の頭で考える”という当たり前のことを、当たり前にできる人間でありたい。


■ 最後に:常識を疑う習慣を持て

俺は思う。「思考停止こそが最大の不幸」だと。

だから、常識を疑え。
みんながやってるから正しいとは限らない。
安心できるから本質的とは限らない。

立ち止まって考えること。
そして、自分で選ぶこと。
それが、誰にも支配されずに生きるための、たった一つの道だ。

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