「結婚式にはご祝儀を持っていくのが常識」。
こう聞いて、多くの人は疑問を抱かずに受け入れていると思う。実際、結婚式に呼ばれたら3万円を包むというのが、日本では当たり前のように語られる。
でも、本当にそれって「常識」なんだろうか?
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嫁との結婚式の話になったとき
俺たちが結婚するとなったとき、当然のように「結婚式どうする?」って話になった。 正直、俺は結婚式にまったく興味がなかった。派手なことは好きじゃないし、人を集めて自分たちを見せるような場にはあまり魅力を感じない。
でも、嫁は「やっぱり一度はちゃんと式を挙げたい」と言っていた。 だからこそ、俺の意見を押しつけることなく、彼女の想いを尊重することにした。
その姿勢は大事にしたいと思っているし、今でも間違ってないと思う。 ただ、それと同時に、結婚式を準備する中で感じた「ご祝儀の文化」に、どうしても違和感があったんだ。
結婚式をビジネス的に組み立てる矛盾
よく耳にするのは、
- 「手出しで50万円で済んだ」
- 「ご祝儀でほとんど回収できた」
といった言葉。まるで結婚式が“資金回収の場”のような扱いになっている。
もちろん、お祝いしてもらえるのはありがたいことだし、ご祝儀という文化そのものを否定するつもりはない。
でも、自分たちが「やりたいからあげる」結婚式に、来てくれる人たちからお金を取ることが前提になっているのって、どこかおかしくないだろうか?
本来あるべき姿とは
もし本当に「祝ってほしい」「来てくれるだけでうれしい」と思っているなら、
「お金はいらないから、気軽に来てほしい」
というスタンスになるのが自然じゃないか?
自分たちの晴れの日に人を呼んでおいて、その人に金銭的負担までかけるのは、逆に礼儀を欠いているとも言える。
なぜこの話をすると煙たがられるのか
こういった違和感を口にすると、
- 「常識をわかってない」
- 「考え方が極端」
と言われる。
でも、よく考えてみてほしい。誰が「常識」って決めたのか? それって、みんなが「そうしてるから」っていうだけの話じゃないか?
常識とは、時に“考えないための道具”にもなる。違和感があっても、見て見ぬふりして、周囲に合わせることで安心を得ようとする。
でも僕は、そこに真正面から疑問をぶつけたい。
「喋る」と「考える」が好きな理由
僕は「喋る」と「考える」という言葉が好きだ。
喋ることで感情が動く。 考えることで、世の中の仕組みに対して自分の立ち位置を見つけることができる。
みんなが「都合の悪いことを考えない」時代だからこそ、あえて考えること、あえて違和感を喋ることが大切だと思う。
それが、僕の考える誠実さであり、人間らしさだ。
常識に流されるよりも、自分の頭で考えた“非常識”を信じてみたい。 そして、そんな姿勢がもっと評価される社会であってほしいと思う。